
私の大きな音楽的体験は小学六年生の冬にラジオを買ってもらった事に始まります。深夜放送などに聴き入った訳ですが、そこにはそれまでまったく知らなかった世界が展開されていました。 ”フォーク”がまだまだ輝きを失っていない時期で、思春期を迎えた心が見事に共振してしまいました。(例えば、井上陽水 泉谷しげる 西岡たかし 遠藤賢司 斉藤哲夫 加川良 なぎら健壱 友川かずき、シュガーベイブ・・・そして、友部正人・・・のちに はっぴいえんど 細野晴臣 荒井由実 大貫妙子 フリッパーズギター ピチカートファイヴ・・・)
中学生になると友人に影響されてギターを始めて歌うようになります。自作曲を作るようになるのは二十歳を過ぎてからですが、おそらくフォークギターをはじめた多くの人がそうであるようにギターを手にしたとたん ”自分には歌わなければいけない うた があるんだ”と胸の奥で思ってしまいました。(この頃から洋楽を聴き始めて 例えば、ジョン デンバー サイモンとガーファンクル ジェイムス テイラー ジャクソン ブラウン マイケル マーフィー レナード コーエン バート ヤンシュからブリティッシュフォークヘ のちに セルジュ ゲーンスブール シャルル トレネ タージ マハール トム ウェイツ スライ アンド ザ ファミリーストーン ジョアン ジルベルトからブラジル音楽へ・・・)
若者と呼ばれる年齢だったころ、よい音楽、イコール生き様 といった観念にとらわれて自分の力量、性質といったものを無視した選択をいくつかしましたが、いくらかそういったものにも気を配れたならもう少し何か実りのようなものがあっただろうにと思います。
齢を重ねることは私にはある側面、自分の能力のなさ、精神のずるさ、だらしなさを確認し続ける事だったりして、確かに若い頃作ったような ”うた”をもう作れなかったりします。ただそのことも悪いことばかりではなくて些細なことに単純にはしゃいだ気持ちになれるようになっていきました。そうできるとそれが肌触りのいいシャツのように自分にピッタリくることを知って観念が邪魔をしてそうできなかった頃がひどく損をしていた気分になります。
音楽は結局は人である、と言う感覚は今でも私の核をなしていて例えば、どのようなメロディやノリをよしとするかというところに人が出てしまったりします。
人間性をまったく感じさせない音楽であっても、そのような音楽を好んで(もしくは狙って)演奏することにやはり、その人が現れていると言えるでしょう。
ただ、よい音楽を生み出す人、イコール優れた人間性の持ち主 とは必ずしもならなくて・・・逆に言うと劣った人間にもよい音楽を生み出す瞬間があり、それは人間性などというものを軽く凌駕します。と、書くと まるで話が矛盾しているようですが、要は誰にでも可能性は残されていると思いたい訳で、今日もその瞬間を夢見て飽くなき跳躍を繰り返しているのが私、ということです。
最後までありがとうございました。